2013年11月30日土曜日

坂の上の

いつもと違う道を歩くとわくわくする。
家の近くのはずなのに、まったく知らない景色。

だいたいあの辺のはずだという
目的地までのおおよその方角だけで歩いていた。
途中で竹藪に囲まれた細道に入ったり、
坂の上をのぼったり、どっちの道が良いかを選択しながら。

舗装された、踏み固められた道もいいが、
わくわくするのはほとんど誰も通っていないような道だ。
道のないところをかきわけていくのが好きだ。
不安もあるけれど、方角さえなんとなく見当がつけば後は進むのみ。

恐らく左の道が正解だと思いながらも、
行ってみたい、見てみたいという理由で右の道を選んだ。
あの坂の上に行ってみたいと思わないか。
あの坂の上に見える雲を目指して、
この手を伸ばしてみたいと思わないか。
 そんなことを考えながら。

人生を語れるような年でも、経験もしていないが
こんなものなのかもしれないなどと思った。
すくなくとも、自分はこういうわくわくすることが好きなのだ。
凝り固まるのではなく、自分を使い果たしたいのだ。

2013年11月29日金曜日

他者の目から

彼はいつもニコニコしている。

彼はとても話しやすい。

彼はいつも私の話を聴いてくれる。

彼は熟慮の上で行動する。

彼は賢明な人だ。

今の私は人からこう思われたい。
よって、そう思われるように行動すること。
そう見えるようなふりから始めること。


2013年11月28日木曜日

愚者の証明

以下の言葉を憶えておくとよい。

"愚者も自分の家の中では、他人の家における賢者より物知りなり"

これは家の中だけではなく
自身の世界そのもので言えること。
家庭、友人、会社、地域など。

上には上がいるということ。
例え良い評価をしてもらったといえど、それは狭い世界の中でのこと。
常に周りを見渡して謙虚であれ。
狭い世界の中で天狗になるな。

愚者である君は
自分以外の賢者である人たちから
学ばせていただかねばならぬ。
そのことを忘れてはならない。

2013年11月27日水曜日

足し算

人の悪い面が気になるのか。
それが君に害を及ぼすのならば
君はその害を避けるべきだ。

避けて横目で見るがいい。
これが君に害を及ぼす可能性のあったものだ。
しかし君は避けたから害は降りかからなかった。

ならばそれは人の悪い面ではあるまい。
君に害はなかったのだから。
だから君は人の悪い面を見る必要がない。
人は足し算引き算ではない。
足し算か、掛け算である。

彼の良い点を見て、
彼の悪い点は避ける
そう生きていくことを努めよ。





雑感

自己顕示欲を捨て去ること。
君が望むものを、人に差し出すこと。

2013年11月26日火曜日

賢明であるために

自身に害なすことを避けることだ。
他人に害なすことを避けることだ。

自身に悪意を抱かぬこと。
他人に悪意を抱かぬこと。



2013年11月25日月曜日

事実を事実として認識すること

君よ、勘違いをするな。
君の持つものは目の前の手の中にのみある。
両の手で作った器の中にあるのだ。
そこに在るものが君の持つものだ。

今は何も見えないかもしれない。
しかし、そこに君の為したこと、
これから為すものが入っていく。

その手の中にあるものが君の持つものだ。
人から称賛されようと、評価されようと、
貶められようと、馬鹿にされようと、
そこにあるものが間違いなく君のものだ。

甘言、苦言、数多えるだろう。
そのたびに君は調子に乗るかもしれない。
しかし、手の中にあるものをしっかりと見据えよ。
事実を事実として見据え、積み重ねよ。
手の中にあるものは、間違いのない事実となる。
君の見る、君の手の中にあるものだけが君のものだ。
君の持つものはその程度のものだ。
後は他の人の手によるものだ。

こうなりたかったから偉いのではない。
こうなったから偉いのだ。

君は人生において自身の手の中にあるものを埋めねばならない。




2013年11月24日日曜日

壁の向こう側に

思った以上に、自分にできないことにぶつかることがある。
もっとできると思っていたのに
自分の中にはもっと積み重ねられていると思ったのに
いざ蓋を開けてみると力不足、いや、
不足どころか空っぽだったのではと。

周りが同様のことをなんとかやり遂げている様を見ると
どうしようもなくいたたまれなくなる。
同じスタートラインに立っていたつもりでも
実際は周りの方が、経験も、力も上手だったのだ。

向いていないのか。
それはわからない。
しかし一つ言えることは、私はそれをやりたいし
できるようになりたいということだ。

人生は短い。
だからこそ時間は大切に扱わねばならない。
だから、自分の強みを活かさねばならぬと
かのP.F.ドラッカー氏は言った。
まさにそのとおりである。

だが同時に思う。
人生は長いのだ。
時間は必要なだけ与えられる。
得手でなかったとしても、経験が少なかったとしても
それを埋める時間は本当にないのか?

私はこれをしたいと思った。
知りたいと思った。
身につけたいと思った。
ならば試行錯誤することは決して無駄な時間ではあるまい。

壁があるなら飛び越えるべきだ。
迂回するべきだ。
叩き壊すべきだ。
穴を掘ってもいい。
その壁に目が釘付けになるのが自分というのなら
その気持ちに素直でいいのではないだろうか。
何度も失敗しても、同情されても、
笑われたとしても。

壁を与えてくれたことに感謝を。
この向こう側に行けた時、
私はきっと成長している。


2013年11月23日土曜日

2013年11月22日金曜日

不安になる時

このままで自分はいいのだろうかと
不安になる時がある。

答えはわかっている。
先のことはわからないということだ。
今できることをやるしかないということだ。
積み上げていくしかないということだ。

具体的に書き出してみよ。
何に恐れを感じるのかを。
どんな自分に不安を感じるのかを。
数日経ってもよくないと思えることならば間違いなくよくないのだ。


慌てずに

何故一刻も早くと思うのか。慌てるのか。
被害がどんどんと拡大している、その被害は看過できるものではないならともかくだ。
そうではないのならば、まずは一呼吸おくべきだ。
君はいつも慌てる。
まずどれほどの猶予があるのかを考えるべきだ。

しかし時は金なりという。
まさにその通りだろう。
だが、直感と反射力のある人間ならともかく君の頭は残念ながらそうではない。
そんな頭でもぱっと思いつくことはある。
しかし、そういう反射的なものをとりあえず置いておいた後でまずは猶予を考えるべきだ。
沸騰した頭を一度冷静にするべきだ。

こうすればよかったという決断に
絶対の指針はない。
勝ったものが正当化される。
理由はいくらでも後からつけられる。
まずは勝てる方法を考えるべきだ。
そのためには頭を直感と熟慮、双方に委ねることだ。

相手の土俵に乗ってはいけない。
挑発にやり返してはいけない。
相手はよく準備した上でいると考えるべきだ。
例えそうでなくてもそう考えて損はない。
突発的な出来事にこそ自制心が求められる。
君は自らを律せねばならない。




雑感

人から認められたいか。
人から認められたいか。

ならば君よ。
言葉を慎重に扱え。
軽々しい言葉を使ってはならない。
言葉は君を表す。
文体は考えを表す。
態度は思いやりを表す。

言葉と人格の力を信じる君は
目的の為にただ前へ進め。
人の弁、世論に心乱されることなく、
じっくりと耳を傾け、
自分自身に聞くがよい。

何が正しくて、何が正しくないか、
君の頭に聞くがいい。
身体がその答えをめんどくさがるのならば、
動かざるをえない状況にもっていくがいい。
頭で身体を征服せよ。
やる気が出ない場合には、元気が出ない場合には
身体で頭を征服せよ。

人から認められたいか。
人から認められたいか。
ならば君は準備せよ。
前を向いて毎日少しでも前進せよ。
君の心と身体の準備が整った時
必ず機会が見えてくるはずだ。

2013年11月21日木曜日

自身の性格に向けて

常々肝に命じていることは以下になる。

思慮深くあること。
慎重であること。
自身に正直であること。

しかし、私は元々の性格もあり内向的、内省的でもある。
周りからは弁が立つ人だと思われているようだが、実際元彼女や家族といった深く付き合うような人たちからは
そうは思われていないだろう。
少なくとも明るくはない。
付き合いやすいタイプとは言えないはずだ。

ある人から言われて意識している、したいことは以下になる。

上を向くこと。
広い視点を持つこと。
柔軟な思考を持つこと。

基本、楽観的な性格だ。
悩んで眠れなくなるとかそんなことはなったこともないし、悩んでもしょうがないことは悩まない。
同時に打たれ弱くもある。
気持ちは強く持とうとしているし、頭から消し去ろうとしても、心のどこかでは引きずる。
人との意見の相違に関しても、反論されると引きずる。
反論は自身を否定されているわけではない。わかっているはずなのに、それでも心のどこかでは引きずって、時折鎌首をもたげてくる。

弱いのだ、脆いのだ。

だから君よ。
せめて態度だけは毅然としてあれ。
平気な顔をしていよ。
心の底で引きずることは君の特性なのかもしれない。
せめてそれを顔や態度に出さぬように。
強き言葉で自身を鼓舞するように。

上を見よ。
前を見据えよ。
にっこりと笑え。

2013年11月20日水曜日

読みたいもの

ガリア戦記
ローマ人の物語
マキャベリ

ガリア戦記は、力強く簡潔と言われるカエサルの文体を見てみたい。
もちろん翻訳によってであるが。
ローマ人の物語は、ガリア戦記の背景を知りたいと思ったからであるが、かねてからハンニバル、カエサル、オクタヴィアヌス、五賢帝、ネロと興味があった。
本屋で見ているうちに彼らに対する興味と、どうせならローマ帝国の栄枯盛衰を知りたいという希望が湧いてきたためである。
マキャベリに関しては君主論に以前から興味があった。
しかし、ローマ人の物語を本屋で見ている時にふと目に止まった。
塩野七生氏はマキャベリに関しても本を書いている。そこで知ったことはマキャベリは君主論だけではなく、政略論や他の著作もあるようだ。
君主論等を読む前に、そのことを教えてくれた塩野氏のマキャベリ語録を読むことにする。
それにはもうひとつ理由がある。
むしろこちらの理由の方が大きい。
塩野氏の本著における前文が非常気に入ったからだ。
「あなたの関心が刺激された箇所について、あなたのご意見をきかせていただきたい」

もとよりそのつもりだ、とまでは言わないが自分の中ではそれは考えていることであった。
私はこの著作を自分のこととして頭にぶつけ、自分のこととして考えたい。
それが読書だと思うから。

早くこれらを読みたい。
読書する時間のある私はなんと幸せなことか。



2013年11月19日火曜日

人と議論はしないこと

人と議論はしないこと。
議論とは勝ち負けとなる話の場合である。
負けることも怖いが勝つことも怖い。
勝てばそれより良いものはうまれないかもしれない。

自身を省みること

ならず者は自分自身をならず者とは思わない。

当然の権利だと思っている。

話せばわかるとは犬養毅の弁だが

話すことを拒否するものに対して

話しかけることは無意味でもある。

徐々に遠ざけるとよい。


しかしそれは自身にも起こりえることである。

世の中に当然のものなどないのだと

かつて病気をした際に学んだつもりだが

それでも未だに、当然と思う時も多い。


まず自身を省みること。

自分の頭で考えよ

残念ながら君の頭はひとつしかない。
ごつごつとした岩のようなものだ。
人の意見に耳を傾けよ。
自分の意見と人の意見をぶつけ合え。
岩もいつかは丸くなる、鋭くなる。
ただし、それは自分の頭の中のみで。




2013年11月18日月曜日

最後の日には

一本の万年筆と、ノート
美しい音楽と、温かい食事
話し相手と、古人の書物
それで十分だと思った。

私は1日24時間を満足に使えていない。
せいぜい10時間程度だ。
それすらも怪しい。
だから使い切れるように意識せねばならない。

今日という日は
特に何があったわけでもない。
しかし、朝の思いつきによって
様々なことを得て、学べた。
そんな一日だった。

今日という日が終わる。
11月18日という日が。
今日生きた全ての人に感謝を。
明日生きる全ての人に挨拶を。

眠りの壁を挟んで、また生まれ変われるように。

前回投稿について

朝、仕事にいってふと思い立った。
今日が人生最後の日だとして
自分はいかに過ごすだろうかと。
そうおもって今日は振舞おうと。
そして、思ったことを心のままに書き連ねた。
それが下の投稿である。

結果として、人生最後の日にするには
足りなさすぎる一日だったが。
いや、そもそもまだ一日は終わっていない(現在18時)から
本当に最後の一日だとしたら
既に締めに入ってるのか!?と自分でも思う。まだ6時間もあるじゃないか!?と。
それも日記やBlogを書き始めて気付く始末だ。

つまり私には今日という一日をフルに使い切るということが出来てないのだ。このままでは死に切れない。

でも、下の投稿は私が心から思ったことだ。
後から見直すとそこには利己心なんて出てこなかった。
ただ、感謝と愛情だけ。
自分以外の人にどう尽くすかしか考えられなかった。

おなかいっぱい美味しいものをとか、
好きなだけ寝るとか、
飽きるまでセックスとか、
お金を湯水のように使いたいとか、
まっったく考えられなかった。
恥も外聞もどうでもよかった。

つまり、そんなことは
どうでもいいことなのだ。
私にとっては。
それに気付けただけでも今日という日はよい日だった。

人生最後の日の生き方

今日が人生最後の日だとして私は如何に過ごすか?

身体が動くことに感謝しよう
頭が働くことに感謝しよう
目が見えることに感謝しよう
耳が聞こえることに感謝しよう
声が出せることに感謝しよう
笑えることに感謝しよう
ひとつひとつの動作を丁寧に、大切に
口より発する言葉は真実であり、丁寧である

目にする風景に慈しみを
聞こえる音すべてが美しい

すべての人々の幸せを願い
人の厚意を味わって
与えてくれることに礼を尽くし
笑顔を周りにふりまいていく
出会った人に感謝と愛しさを
人と触れ合い、一人では過ごさぬ

何人をも疑うこともなく、怒りを覚えることもない
すべてを認め、すべてを許す
心より人を褒め、賞賛する
人の話に耳を傾け、そっと背中を押してやる

望まぬことはやらず
正しいと思うことだけを行う
何をも恐れることはなく
何をも為せぬことはない
終わったことは悔やまず
起こらぬことに不安はない

自身を赦し、誇りに思う

今日は人生最良の日。

2013年11月17日日曜日

日々の糧

一生に後何回食事ができるか。
そのうち何回に満足できるか。
腹を満たすための食事か。
妥協した食事か。
心を満たしうる食事か。

手打ちの拉麺店に行った。
地元では有名であり、昔からある店だ。これで二度目である。

五目拉麺を注文し、出来上がりを待っている間はちょっと待たされる。
しかしその間も店主が黙々と麺を延ばし、おかみさんがさっと茹でるための湯を足したり
麺を湯からあげたりと狭い厨房内で
縦横無尽に動く。
一杯の拉麺が目の前で麺から出来上がっていく様を見ているのは楽しい。

五目拉麺一杯1000円
餃子一人分8個800円。
安くはない。

しかし、この一杯の拉麺、ひとつの餃子は間違いなく人の手で作られている。目の前で作られている。
餃子の皮も手作りであり、一個の餃子の皮が分厚くてぷりぷりしている。
そして、五目拉麺の野菜を炒め、スープを作る時もご主人が味を見ていたことに気付いた。何十年もやっているであろうが味を見ていた。
当たり前と言われたらそうかもしれないが、この一回の食事に対する
店なりの誠意に見えた。

そんな一杯が美味しくないわけがない。心から満足したし、値段も高いとは思わず当然の対価に思えた。

こういう食事を一日に一度でもとれたら幸せだろう。ファーストフードや出来合いのものが悪いとは言わない。
値段も手頃で、味も悪くない、企業努力の結晶である。

どんな食事であったとしても、美味しかったねと店を出た後も会話に出てくるような…そんな食事をとれるよう日々の食事を選びたいし、そんな食事を提供していただけることに感謝したい。

2013年11月16日土曜日

散歩すること

3年前は1年ほど散歩を日課にしていたが全く行わなくなってしまった。

痩せるために運動、頭のために運動、健康のために運動。
これだけ良いことづくめで運動しない理由がどこにあるのか。
等と思いながら突発的に散歩を始めた。

歩きながら考えていたことは
なぜ以前は日課にしていたのにできなくなったのかということ。
ひとえに時間をかなり取られることがある。
以前は1時間15分毎日歩いていた。
そして、散歩する前にジャージに着替えて、準備体操して、
終わったら汗をかいているからシャワーを浴びて…
となるとやけに時間がとられる。

もちろん、健康のための運動なのだから
それ以上に有意義なことがあろうか、もっと無駄なことに時間使ってるだろうと
思う自分もいるのだが
とりあえずそんなもう一人の自分はおいておく。

1時間15分歩くのはいいが、準備も含めて+15分くらいで完結したい。
出来れば準備も含めて1時間で完結できると管理しやすい。

では、どうして以前は1年間続いたのか。
これは田舎の利点なのだが、歌いながら歩いてたというものがある。
当時はカラオケにはまっており
恥ずかしい話だが、歩いている間中熱唱である。
イヤホンをしながら熱唱しつつ、歩く。
もちろん真昼間にすると人目に付いて恥ずかしいので歩くのは夜だ。
これは可能な環境がいれば人に勧めたいと思う。
のどすっきり、気持ちすっきり、運動と歌で二重にストレス解消。

だが、そんなカラオケも飽きた。
それと同時に夜の散歩習慣も収束していった。

今続かない理由、以前続いていた理由を列挙して考えてみると、

つまり、今の私が散歩習慣を続けるためには
何より汗をかかなければいいのだ。
疲れなければいいのだ。
それが運動なのか?といわれたら疑問だが有酸素運動とはそういうものだと信じる。
一回に歩く時間ではなく、継続して行うことが大事なのだと信じよう。
よって一回を短めに設定しよう。

ということで、今は睡眠から目覚めるとコーヒーを飲み、シャワーを浴びる。
これは目を覚ますためである。
ならば、この中に散歩もいれてみてはどうか。
よりよい一日になりえるのではないだろうか。

続いて、歌に変わる楽しみを見つけなければならない。
それは運動そのものではないのか?と思うかもしれないが
そこまでスポーツマンでもないので難しい。
が、今日は歩いていると2人の人に出会った。
ひとりはおばあちゃん。
こんにちわと挨拶をすると、にっこり笑って返してくれた。
そして、小学生以来で登ってみた山の上の団地にすむおじさん。
多分、見慣れない顔がきょろきょろと歩いていたからだろうが
「どこいってるの?」と話しかけてくれたので、
近くに住んでるんだが、ここまであまり来る機会がなかったので散歩していた旨を告げると
私が行き止まりだと思っていたところの裏に実は道があることを教えてくれた。
お礼を言って行ってみると確かに道があり、普段よく目にしている道路にでていた。

こんなところにでていたとは!
その一件から始まって、よくよく目を凝らすと、周囲の色のきれいなこと。
ケイトウの鮮やかな赤紫は目に映え、道路横の並木はきれいに色づいている。
田畑は黄色のような緑のような、表現できない色合いだ。
電線の上には鳥がとまり、こちらを見ている。
山の向こうに見えるさっきまで歩いてきた道路の横の木は均等な高さだと思っていたが
よく見ると2つとびぬけて高いものがある。

知らないことがたくさんあるのではない。
知っていることの方が少ないのだ。
そこに"在る"ものに比べたら、人間が知っていることなんてたいした量ではないのかもしれない。

明日も見てみよう。
曇りのない目を意識して。そこに"在る"ものを。
この習慣が続くかどうかわからないが、
思いついたらやってみることだと思っている。

まずは明日の朝起きたら、である。

2013年11月15日金曜日

習慣は物事を促進する

最近、夜遅くまで起きてしまっている。
今週頭からいえば昼からの勤務の終了が23時。
帰宅して0時前、そこから風呂に入り、本を読んだり、ゲームをしたり、Blogを書いたり。
気付けば2時や3時が当たり前となっている。

そして週の後半は夜勤であり
休めるときは横になって休んでいるが
それでも2,3時までは起きている。

仕事だからといえばそこで終わるが
やはり人間は夜眠らないと、一日中頭がぼーっとする。集中力もない。
よりより生活のための仕事のはずなのに仕事以外の時間で影響が出るようでは
本末転倒である。

そんなこんなだが、昨日から今朝にかけてほとんど休めなかった。
眠るには寝ていたのだが、まとまった時間で休みがとれていなかったのである。
日中は忙しかったというわけでもなく、眠たいけど、寝たくないという
気持ちの方が大きかったのかもしれない。
仕事中はいろいろと仕事を進めており、5時ごろまで起きていた。

そして、5時ごろにようやっと仕事が片付き、
少し横になって休んだ。
30分後起き上がってみると、体がふらふらする。
額は冷や汗をかき、息が荒く、正常な思考ができない。
夜勤は常時ひとりなのだが、この時ほど早く次の担当に来てほしいと思ったことは
最近では記憶にない。
よろよろして、千鳥足で、挙動不審もいいところだ。
次の担当になんとか業務を引き継いだ後、早々に帰らせてもらった。

家に帰って5時間ほど睡眠をとったところ楽になり
やはり睡眠不足だったのだと思ったが、体のしんどさ、頭の中の雲は晴れない。
ちょっと日の光を浴びようと思い立ち、昼ごはんもかねて
自転車で近くのうどんやまで行ってみた。
道中、多少の坂があるが、なんとなく息が切れる。
運動しなきゃいけないと思い、ついでに20分ほど遠くのスーパーにまで
足を延ばすことを決めた。
ついでに胃が痛かったので大根でも買って大根おろしでも食べようと思い立ったのもある。

その道中で杖を突いたおばあさんがひとりでゆっくりと歩いていた。
恐らく横の景色を見たかったのだろう。
体の向きを変えて、ガードレールにつかまるまでの間も
ゆっくり、のんびり、息を切らしながら行動する。
その横を自転車で通り過ぎていく私。

こんな高齢のおばあさんでも自分の足で歩いている…
自分は運動をしようと自転車に乗ったが、いつもは車だ。
それも最近は運動をしていない。
自分はいったい何なんだと感じてしまった。
自分があのおばあさんくらいの年になった時、自分は歩けるだろうか。
横の景色を見るために、今の私なら首を横に曲げるだけだ。
しかしおばあさんは体ごとゆっくりと向きを変えていった。
恐らくそうすることしかできないのだろう。

今回のように思い立ったように運動したり、
身体によいといわれる食材を摂ることに意味はあるのだろうか。
それよりも毎日の習慣が大切ではないのか。

やるなら毎日やれ。
習慣は物事を促進する。
良い習慣は良い方向に、悪い習慣はより悪い方向に。

自分がつけたい習慣を一度列挙してみる必要があるかもしれない。


2013年11月14日木曜日

読書について

迷った時は読書をするようにしている。
本は何でもいい。
迷った内容によって異なる。

ショーペンハウエルの「読書について」によれば、読書とは他人の頭で考えることであるという。
ショーペンハウエルはその行為を否定的に書いてはいるように見受けられるが、私には良くないこととは思えない。

残念ながら私は頭をひとつしか持っていない。それもたいしたことの無い頭だ。
そんな人間が読書をすることで他の視点から物事を考えられるようになる。
他の観点から考えを繋げられるようになる。

例えば当Blogのタイトルとなった自省録に関して言えば
マルクス・アウレリウスは2000年も前の人だ。
学校の、試験の歴史で学んだだけならば彼は遥か彼方の偉人という認識でしかなかった。
今とは時代も違うし、彼とは置かれた立場も違う。
だから彼から学ぶことがあるとも思わなかった。

しかし、彼の書物、考えたことに触れることによって非常に彼が身近になったのだ。
彼もまた人間だった。
朝に弱く(そうとれる記述がある)、迷い、悩む人間だった。

人間は今も紀元前も変わらない。
だからこそ歴史は学ぶ価値があると思っている。

君は書籍を読み、知り、考えるとよい。
他人の頭でもいい。その苦悩を共有するといい。
それはきっと君に深みを与えてくれるはずだ。

読書は知識だけのものではない。考えるということそのもの。
頭の中にぱっと光を灯してくれる行為であると思う。
だからこそさーっと一冊を終わらせることはもったいないと思っている。

2013年11月13日水曜日

虚心坦懐

ローカルのニュース番組をたまたまつけると
「おとうとは青が好き」という絵本を
市の職員が紹介していた。

アフリカ(エチオピア?)の写真が
主な内容の本のようだ(絵本だったのかどうかは疑問)。
中身を少しだけ見せていたが、
TVの画面で見てもわかるほど美しい青や黄色の写真だった。

それを見た瞬間に思った。
普段過ごしている身の回りにも
たくさんの色があるのだ。
中にはハッとするくらい美しい色もあったのかもしれない。
私が気付かなかった、見てあげようとしなかっただけで。

物事をありのままに見る、ということは難しい。少なくとも私には。
そこにありとあらゆる主観が入るからだ。
自分の主観ならよいが二次情報、三次情報となると伝達者の主観が少なからず内在する。
物事を判断する時に一次情報から、他人にどう思うか、どう受け取ったかを聞くこともあるが、自分にとって大切なことは情報を自分の主観で受け取って、判断したいと思う。

もちろん他者の意見、見方を否定する気はない。
それは自分とは違う見方であり十分検討されるべき内容だ。
同じことでも、こう受けとるのかと思う時も日常で多々ある。

しかし、それらを吟味した後で
最後の最後で決めるのは自分でなければならない。
自分自身の決断は人のせいにはできないからだ。

願わくば、主観も客観も除いて
ありのままをありのままに見たいと願う。曇りなき心の目を持ちたい。
虚心坦懐の心であれるよう。
その上で決断したい。進みたい。

曇りなき 心の月を さき立てて
浮世の闇を 照らしてぞ行く
伊達政宗

好きな言葉である。

2013年11月12日火曜日

思いやりのある人

"誰にも悪意を抱かず、皆人に思いやりをもって"

尊敬するリンカン大統領の第二期就任演説の中の一句である。
A.Lincolnに関するD・グッドウィン氏の著書「Team of rivals」には度々彼の人柄について「思いやりのある」という表現が見られる。
今なお愛され、歴史に名を遺した人。
歴史上の人物でこの人と話したいという方はたくさんいるが、選べと言われたら私はリンカン大統領を選ぶ。
(次はソクラテス)

思いやり。
小さな頃からよく聞く言葉。
しかし、それが何かこれまでよく考えていなかった。
思いやりとは何か。

まず思いつくことは
人に対するいたわり。
人に対する温かさ。

つまり、何か。
人の話に耳を傾けること、
人の境遇に共感できること。

自分が見て、思いやりのある人だと感じるのはどんな人だろうか。
今のところそのようなことを感じた覚えがなく我ながら白状だと思う。
これまでたくさん思いやりを受けてきたはずだ。
認識できるところ認識してないところで。
人に支えられて生きているという実感はある。
むしろ支えられてばかりなのにぱっと思い出せない。
当然のことであるはずがないのに、それをありふれたことと一過性の感謝で終われるような環境にいさせてもらえているからかもしれない。

ひとつ思い立った。
やはり両親、特に母だろう。
私は小学生の時に引きつけを起こした。
それ以来20歳になるまで定期的に遠くの病院に通っていた。
母はその度に送ってくれた。
一日を潰してくれた。
そして…
大好きだったコーヒーをその時から絶った。
結局、その時以来引きつけは起こさず、通院を終えて13年。
引きつけを起こした時から21年が経つ。
今もコーヒーを飲んでいない。

リンカンはこういう言葉を残している。

“I remember my mother's prayers and they have always followed me. They have clung to me all my life.”

私は母の祈りとそれがいつも私を守ってくれていることを覚えている。それは私の人生を通じて、付いて離れたことはない。

"All that I am, or hope to be, I owe to my angel mother."

今の私、なりたいと思う希望全て、母からの守りをもらっている。

うまく訳せないが、母への感謝の言葉だ。リンカンは実母を幼い時に亡くした。継母との関係も良好で、継母からも愛情をかなり与えられたらしい。

彼の言う母とはどちら、もしくは双方なのだろう。私には幸いなことに両親共に健在である。今もお世話になっている、なり続けている。

彼らが私にしてくれてること、その視線を他人に向けてあげれば…。

難しいとは思うが少しでもそうなれるように。

今日のことは風邪で早退した同僚からの電話をとった際の出来事が発端だった。

切羽詰まった声で「電話もらったみたいですが」とかかってきたが、私は部署とは別の部屋にいたこたもあって「かかってきた番号とかわからない?」と返した。

すると、確認して折り返すということで終話したが、もっと思いやりをもって聞いてるよと言ってあげればよかった。一言労わればよかった。

同僚が気の利かない人と思ったかどうかはわからない。

しかし、私にとっては少しだけ反省を残した。思いやりのある対応とは何か、そこから考えたことである。

思いやりのある人になりたい。


簡単なことだ

一日を無駄にし、顔を老けさせ、
髪を薄くする方法は簡単だ。
夜更かしすればよい。

最も睡眠が深い時間であるという
23時から2時までの間を
あかあかとした照明の元で過ごすが良い。
ゲームをするがよい。
ネットをするがよい。

たったそれだけで君は翌日の時間を食い物にし、顔を老けさせ、
髪を薄くすることができるだろう。

簡単なことだ。

闇に身を任せて眠るよりも
人類の英知、照明によって
己が時間と身体、若さを削り
電気代で財布の中身も削るがいい。

簡単なことだ。

だから君はやるのだろう。
仕事が終わって、風呂に入り、
すぐ電気を消せばいいのに、
横になればいいのに、
わざわざPCをつけてゲームをするのは
そうなりたいからなのだろう。

翌朝は遅く起きて、ずっと眠いまま。
寝ぼけ眼をこすりながら仕事へいき、
たいしたことも成さず、
本も読まず、仕事と食事と睡眠、娯楽だけの生活を楽しむのだろう。
そんな状態で日記なぞ書きようがない。

わかった上でやっているのだろう?

2013年11月11日月曜日

いつやるのか

何とはなしに小野道風の説話を思い出した。
雨の中、柳に飛びつこうとするカエルを見て一念発起する話だ。
この手の話は日本にもある。

何かのきっかけで人が奮起し、大成する話の主人公はだいたい10代か20代の頃のようだ。
そして自分は30代である。
しかし自分にやりたいこと、やってみたいことがあった時、30代だからと言ってやらなければ今生では諦めねばならない。
輪廻転生、生まれ変わりという言葉がある。
仮にそれらが存在したとしても、それは彼らの人生だ。ならば今生の私がやりたいことをやるのは誰か?
私以外いない。
だから今すぐやれ。今やらなくていつやるのだ。
思いつきでも何でもいい。
とにかくやってみろ。

ということでやりたいことは多々ある現在。
時間とスケジュールを一元管理するために自作で手帳を作ろうと思っている。
よく考えると、手帳は何故1年単位なのか。
それが気に入らなければ来年まで我慢するのか?買い換えるのか?
そうやって探し求めて行くのか。
人生で買える手帳の数なんてたかがしれている。
ならば、自分に一番よいものは自分で作ったものだと信じている。

2013年11月10日日曜日

昨日の自分との約束を守るよう努力することだ

一日の省みも睡眠を削ってまではいけない。
ここ数日、一日の反省を23:30ごろから始め
考えたり、書き物をしているうちに2時や3時までになることが多かった。

また、あろうことかそのあとiPadでネットなどをしていると
新聞が配達される音まで聞くこともある。
自身の勤務体制が昼からの勤務であり、
朝はゆっくり眠れることも原因の一環ではあるが
生活リズムがおかしくなっている。
一日の、特に夜の時間に行うことをもっと前倒しするべきだ。

一日が遅く始まると睡眠も遅くなる。
それによって生活リズムが崩れ、昼寝も必要となり
一日の時間が短くなる気がする。

では、早く起きればいいのか。
よく朝型生活ということも言われている。
今も私は朝からの勤務の場合は5時に起きているが、
私の体力だとどうしても16時から18時までの間が異様に眠たくなる。
後、高校時代は朝に起きて勉強していたが、
冬は寒かったことと、眠さのあまり覚醒するまでに時間がかかり
3時間ほど時間をとっていても結局1時間も集中できなかったりもあった。
もちろん高校時代の話であるから今もそうかはわからない。
試してみる価値はあると思うが、
今の不規則な勤務体系(朝6時から、昼14:30から、夜23:00から)では考えてはいない。

では、適切な時間とは何か。
昨日の自分が予定していた時間だろう。
明日はこうありたいと願って予定した時間だ。
最近、この自分との約束を破っている。
朝は惰眠をむさぼったり、夜はネットして眠れなくなって起きる時間を延ばしたりと。
まずは自分との約束を守ることだ。

カーネギー名言集でこういう言葉があった。
"明日を始める前に今日をすっかり終える。
今日と明日との間に眠りの壁を置く。
これをやり遂げるには節制の心がけが必要だ。  エマーソン"

この、"眠りの壁を置く"という言い回しが好きだ。
今日という日が終われば、また新しい今日が始まる。
そこで昨日までとは違う新しい自分、成長した自分を世間に披露したい。
自分に披露したい。
そのためにこのBlogを書いている。

眠りの壁を置く前の自分と、眠りの壁を置いた後の自分。
約束を守るように。




2013年11月9日土曜日

時間を浪費してはならない

私はこのBlogを日記にするつもりはない。
そして、主張の場とするつもりもない。
誰かに伝えるつもりもない。

なぜならタイトルが"自分自身へ(Ta eis heauton)"だからだ。

君は一日の終わりに一日を省みる。
自分に伝えたいことは何かを考える。
それを内容とするべきだ。
もちろん、そこには日記めいた内容も含むだろうし、主張も含まれるかもしれない、
誰かに対して伝える内容があるかもしれない、
しかしそれらはあくまで付随的なものでありこのBlogの目的ではない。
私の求めるものは自分自身へ伝えたいことだ。

君の日記など誰も見たくない。
君の日記は自分の日記帳の中だけにとどめておくとよい。
同時に君の主張もまだ求められていない。
今は君の主張、思考も自分の思索帳の中だけにとどめておくとよい。

Blogを毎日書き始めて数日になるが
書こうとする内容が、日記か、自身の意見の主張となっている場合が多々ある。
この内容でいいのだろうかと悩み、考えた挙句、消して別の内容にしている。
一度明記しておかないとまたわき道にそれてしまうから記載しておく。

一日を振り返って思うことは時間の使い方に関してである。
時間とはこの世で最も平等に与えられ、そして戻らないものだ。
一日は24時間あり、それは1440分あり、86400秒ある。
そして、私は時間の使い方が下手である。
Togglというツールを使用し、自分の時間を記録しているが
この時間は必要だったのだろうかと思うことも多々ある。

たとえば、今日は休日だが、私服で出勤扱いの定例会に参加していた。
そして、帰宅してから眠気に襲われ
ちゃんと寝ればいいものをベットの上でだらだらとネットをしながら
明かりもつけたままで3H25Mを過ごした。

時間は戻らない。
だからこそうまく使うべきだ。
もちろん時間をゆっくり使うべき時もある。
すべての時間を切り詰めようとは思っていない。
人の相談を聞いたり話を聞いたりする時間はゆっくりとりたい。
"時間が物事を煮詰める"と思っているから。

だが、自分のための時間ならば、
それも自分が行動している時間ならばきちんと使うべきだ。
湯水のように使ってはいけない。

今日の余剰時間3H25M
この時間を使って、もっと本を読むことに使えなかっただろうか?
否、疲れていたなら疲れていたでよい。
ならばちゃんと時間を決めて休むべきだ。
休む時は休み動くときは動く。
ごろごろだらだらはいけない。

自省録第五章第一節の一部を書く。
"明け方に起きにくい時には、次の思いを念頭に用意しておくがよい。
「人間の務めを果たすため私は起きるのだ。」
自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目に行くのを、まだぶつぶついっているのか。
それとも自分という人間は夜具の中にもぐりこんで身を温めているために創られたのか。
「だってこの方が心地よいもの。」
では君は心地よい思いをするために生まれたのか。
いったい全体君は物事を受け身に経験するために生まれたのか、それとも行動するために生まれたのか。(以下省略)"

君はこれを忘れてはならない。

2013年11月8日金曜日

一日を振り返って

このブログのタイトルはTA EIS HEAUTONである。
マルクス・アウレリウスの自省録の原題であり
意味は「自分自身に」であるそうだ。
元々は自分自身の一日を振り返って、自分へのメッセージを書くつもりであった。

そして、今日の一日を振り返ってみたところだが
正直なところ仕事という面ではベストを尽くしたと考えていた。
難しかった作業もやり終えたし、
仕事とは関係のない組合の弁論大会に関しても参加の意思を伝えた。
人前でしゃべることが好きなのだが、なかなか機会がない。
だからこそこれぞ好機とばかりに飛びついて参加の意思を伝えたところ、
上司たちの間では「出るとしたら彼だろう」ということでほぼ予想されていたらしい。
案の定ということだ。

仕事という面ではなかなかよくやったと思うから
今日の当Blogは自分に満足した、いい一日だったと書こうかと思った。
が、それを考えると最初の当Blogのタイトルの意味と異なる気がする。
もちろん自分をけなすだけのBlogではないが、あくまで自分へのメッセージでありたい。

そういうことを考えていると、
仕事のことだけを考えている自分に気づく。
違う。
確かに仕事はベストを尽くしたと思った。
しかし、1日は24時間あるうちのたかだか8,9時間程度。
残りは何していた?

そう考えたら今日は惰眠をむさぼっていたとか
読書が1時間半しかできてないとか
色々と反省点が浮かぶ。
仕事は確かに満足ができた。褒めてもいい。
しかし、今後、自分がどんな仕事に就こうとも、より自分を高めていくためには
一見成功したように見えても、問題点はないか探すべきだと。
探す努力をするべきだ、よりよくなるように改善していくべきだと。

このBlogをしていなければ、今日は一日よくできたと満足したままで終わっただろう。
そういう意味ではありがたい場所でもある。






2013年11月7日木曜日

偶然はあてにできない

今日は、たまたま、と思えるようなことが二度あった。

ひとつは仕事中の作業で、いつもは見ていない箇所をたまたまちらっと見たところ
その日に限って、前の担当者が誤った処置をしていた。
別に私は責めるつもりもなかったし、あちらもそう感じてくれていたと思う。
前の担当者とお互い笑いながら、言い訳してもいいですかということで聞いてみると
昨夜、寝る前に電話がかかってきてほとんど眠れなかったそうだ。
笑えるような失敗ではあるが、仮にこれを私が発見できなければ
恐らく騒動になっていただろうから笑って済んでよかったと思う。

これは正直、たまたま、見ただけだ。
いつもはチェックなどしていない。
担当を信じていると言えば聞こえはいいが、要は私がベストを尽くしていないのだろう。
ちらっとでも見るだけで済む内容をいつもは抜かしているのだから。

ふたつめは仕事から帰宅後。
私は本日は遅いシフトで退社が遅いため、各部署の人間からカギを預かる。
そして、預かったカギを耐火金庫の中に置いて帰宅する。
めんどくさい時はポケットの中にいれておくが、退社時にはポケットの中をチェックする。
もちろん本日も行った。
が、今日は日中はワイシャツで、夜以降は上着を着ていた。
そして自分が上着を着ていることを着ているのに忘れており、
上着のポケットだけをみて、退社したらしい。
その後、帰宅してワイシャツを洗濯に入れようとして鍵があることに気づいた。
この鍵がないと翌朝、出社した別部署の人間は部屋に入れない。
朝シフトの人間は真っ青になるだろう。
急いで車で会社に戻りカギを戻した。

これの何が偶然かと思うかもだが、私はワイシャツのポケットの中をあらためずに
洗濯かごにとりあえず入れておく場合もたまにある。
今日はたまたま、ポケットの中をあらためた。
しかも、帰宅してすぐに気付けた。
もしも気付けなければ…おそらく明日の朝、8時すぎに電話が鳴り
私は真っ青な顔になって、今すぐ行く!といって自転車をこいだかもしれない。
20分近く他部署の人間を待たせて。
自分としてはぞっとする話である。

正直、運がよかったといえるのだろう。
こういう運を楽しむ余裕はある。
ただ、ラッキー♪で楽しんだ後は、そこで終わらせたくはない。
ドラッカーは何かの著作の中で言っていたはずだが
「偶然はあてにはできない点にある」

ネットで出てこなかったため本棚を調べてみた。
問題解決についての内容で以下とある。

"奇跡の困った点は、稀にしか起こらないことにあるのではない。あてにできないことにある。"
「プロフェッショナルの条件」のP153

後、確かアイゼンハウアーも同様のことを言っていた気がする。
ちらっと見ただけだが・・・

調べてみたがみつからない。
まだ実はちゃんと読めていない本で見たような気がするだけなので違うかもしれない。
この本をちゃんと読むことだ。
本は「カーネギー名言集」
また見つかったら記載する。

時間を2:30遅れで投稿。

2013年11月6日水曜日

赦すこと赦されること

自分の恥について昨日は考えていた。
が、正直なところある程度まで考えたら忘れていいと思ってもいる。
私は父と母にそれぞれ迷惑をかけた。
反省もしたし、直そうとも願う。

さて!
ここまでだ。

勿論だがお互いに迷惑はかけるものだ。
実際、今日、私が父のために作った晩御飯にほとんど手をつけず
自分で買ってきたお寿司と天ぷらばかり食べていたのだし。

だから私は許してもらう。
その代わり私も許す。

何にしても、自分はその人にとって
世界たりえるからこそ
世界は良いものだと思わせたいと思う。

私は赦す。
自分も他人も。

2013年11月5日火曜日

私は世界の中の一人にすぎない…が

何度か考えたことがある。
自分は後何回ご飯を食べられるのだろうかと。
一日三食、一度は「今日はこれを食べた。美味しかった!」といえる食事をしたいと願う。
そんな食事を後何回出来るのだろうか?

私が今、33歳。
何才まで生きられるかはわからないが、自分の中では56歳をひとつの区切りと考えている。
そこからは次のよりよい人生を歩んでいきたいと考えているので。
となると、単純に計算して
365日×22年=8395回
満足のいく食事をできたとしてもそのくらいなのだ。
もちろん朝昼晩全てに満足のいく食事というのは幸せなことかもしれないが、元来太りやすい我が身。
健康を害しそうなため、一日一食は満足のいくものをという計算にする。
残り8300回。
病気もするだろうからベストコンディションで食べられる回数となるともっと低くなるだろう。
そう考えると一回の食事もあまり無駄にしたくはなくなる。

で、今日、某大手ファーストフードチェーンで
遅すぎる昼ごはんとして16時前に
150円のハンバーガーとコーヒーを頼んだ。
合計250円だがお腹も減っていたし、何より久々にきた店でもあって何だか嬉しかった。

注文後、しばらく待った後、呼ばれたから取りにいくと
店員が私の前にハンバーガーとコーヒーの入ったトレーを置き、スッと踵を返して奥へ行く。
んっ?私が思った所で、隣の店員が気付いて、さっと私の目の前にきてトレーを差し出し直した。
顔を見るにあちらも少し同僚店員に対して動揺したのだろう。
一瞬、このままトレーを出していいものかダメなものかを悩んでいるように見えた。
そうこうしてると先ほど踵を返すように奥に行った店員が戻ってきて
その様子を見て「しまった」と思ったのだと思う。
少しきまり悪そうな顔で、バーガーを掴み、ナプキンを下に敷いた後で置き直した。

掴み、そう、文字通りむんずと掴みという感じである。
こちらとしては、最初に「んっ?」と思った後は
ああ、客のいない時間帯とはいえ隣の連携素早いなとか、
あ、気まり悪そうな顔してるとか
ああ、バーガーをむんずと掴んだ(笑)
といった感じでどっちかといえば面白がる感じで店員を見ていた。

で、トレーを運びながら考えたことが
あの店員さんも多分今日一日だけでもかなりの数の接客を行い、
ハンバーガーを用意してきたのだろうと。
彼女にとってこのハンバーガーは一日の数多の中の一個だが、
私にとってはこれはその日の糧なんだよなぁと。

別に店員さんについてどうこうというつもりはなく、
私も同じことをしてないだろうかということ。
そして、食事を提供する店というのは少なからずそういう趣を持つのではと思い
大変だなぁと。
どういうことかというと、忙しさや数にかまけて、
その人にとっては大切なことなのにおざなりにしていないだろうかということ。

コリン・パウエル氏の著書にこういう言葉がある。

"世界にとってあなたは一人の人に過ぎないかもしれないが、
一人の人にとってあなたは世界になりうる"

今日、父の携帯を俗にいうガラケーから
スマートフォンに変えた。
家族は全員iPhoneであり、父が唯一のAndroidユーザとなった。
で、私は一応今はシステム業界に携わっているため、なんだかんだと質問される。
しかしながらAndroidはわからない。
手あたり次第一からさわり、調べることになる。
で、ネットゲームをしているときも父から再三呼ばれ、自分でもわからないことを聞かれる。
最初ははいはいと受けていたが、あまりのAndroid携帯のわからなさに
父に対してではなく、Android携帯に対してグチグチ文句をいった。
「なんだよこれ!」「だからAndroidは嫌いなんだ」「意味わからん」等。

父はそんな私の様子を見て「ちょっと自分で見てみるわ」と持って帰っていった。
結局、思い直してもう一度見せてもらおうと父のもとに向かうと解決していたらしい。
今日は父にとってスマホデビューの日だった。
なのにそれに文句をいう。それも人にじゃなくて物に文句を言う。

そして、ようやっと家族全員でLINEが出来るようになり
(それまで父の携帯が対応してないためできなかった)
妹2人がLINEで家族のグループを作り、そこで会話を始めた。
上記のイライラの上に、妹の会話で毎回通知が鳴り正直イライラ。
それに対しても母に、LINEを消すことも検討するとか、会話はいいけど通知がうっとおしいだの
文句を言った。
人ではなく物に。

私はなんて余裕のない小さな人間なのだろうか。

LINEが嫌いでAndroidが嫌い。
これは私がもともと持っている正直な感想である。
だからどうした。
そんなことで、スマホデビューの人間に、やっとLINEで家族で話せるという時に
自分の都合で、ぐちぐち文句をいっていいものか?
しかも人ではなく物にだ。

"世界にとってあなたは一人の人に過ぎないかもしれないが、
一人の人にとってあなたは世界になりうる"

それを私はこう言い換えて自身を戒めたい。

"あなたにとっては今日はただの一日かもしれないが、
彼にとっては今日は大切な一日になりうる。"

反省せよ。
自分の小ささを恥じよ。

情けない。

2013年11月4日月曜日

過去を消すことは出来ない

過去を消すことは出来ず
過去を見ないことは自分を認めぬ事となる。
過去は行動、決断、思いつき、反応、自分自身の集合である。
今は意味をなさなくてもいつかは意味をなしてくる。
いや、意味をなさなくてもきっと無駄なことではない。
過去があって今がある。
そして今があって未来がある。
ならば過去があって未来がある。

故にそれを消そうとすることは
自分の愚の骨頂に過ぎない。
私は自分がある目的を持って記載していたノートに対して、今日からまた以前の目的に戻した。
そして、間の履歴を消そうとした。
いや、実際ノートのページを切り取った。
切り取った瞬間に後悔した。
私は過去の自分の思いつき、行動を消そうとしたと。
切り取ったページは持っておくつもりだ。

過去を消そうとした自分への戒めとして。
過去があって現在がある。
過去を恥じるものに恥じない未来はない。

自分がどういう時に腹を立てるか

人間の感情には喜怒哀楽がある。
これはあくまで大きく分けてであって、細分化していくともっともっと分かれるのだろう。
自分が外界から刺激を受けることで、反応し、結果が生まれる。
いずれも大切な感情である。
なんの反応も示さない心は麻痺しているだけだ。

そう、怒りも負ではない。
怒りはエネルギーになる。
怒りを制御せず身を任せることが負なのだと考えている。

コリン・パウエル氏の「リーダーを目指す人の心得」という著作の中で
上官に対して怒れるパウエル氏の文句をじっと聞いた後で、上司は彼の肩をポンと叩き帰宅する。以下の一言を残して。
コリン、怒りは乗り越えるためのものだよ。じゃあな」

怒っていい。
そもそも私は人からはそう見られてはいないと思うが父譲りの短気な性格だ。
頭に血がカッと登る。
ただ、人前だと自制するし、そこまでの怒りに巡り合ったことがないだけの話だ。

代わりにぐちぐちいう。
皮肉を言う。
言い方はオブラートに包んではいるが、後から言わなけりゃよかったと後悔することばかりだ。
何も言わなくても、心の中でぐっと抑える。これはこれでストレスも溜まる。よろしくない。
何より周りの人間からはたいして自分が怒りを感じていなくても、怒っていると言われることがある。
我慢ではダメだ。
制御するのだ。

今はたまたま怒りを爆発するような機会が人前ではないだけで、
このままを続けていてはきっといつか爆発する。
自分がどういう時に怒りを感じるのか、
ムキになるのか、
それらを記録し、自分を知る努力をするべきだと感じた。
自分を知っていれば予防ができる。
客観的に物事を見つめられる。
準備さえ出来ればなんとかかわせそうな気がする。

怒らない人間にはなりたくない。
適切な時に怒る人間でありたい。
冷静に残念だと思う気持ちを伝えられる人間になりたい。
今直さないと、歳をとるほど短気になるだろうから。
私はそうはなりたくないのだ。

後、忘れたくないことをもうひとつ。
怒らないことはよくないが、
何に対して、何のために怒るかで
人の器を測ることができると思う。

2013年11月3日日曜日

ハムレット

ずっとシェイクスピアのハムレット(岩波文庫)を読んでいた。
どの翻訳でもそうだが訳者の解釈によって全く意味が異なってきそうな雰囲気がある。
岩波文庫のマクベスは芝居を意識して読めたのだがこちらはどちらかといえば読み物な感がある。

様々なシーンにおいて、狂気を演じるハムレット、苦悩するハムレットがいるが、この時点でのハムレットは欺いているのか、正常なのかといった部分が私の読解力のなさも手伝ってか、いまいちわかりにくい。

今は便利な世の中でiBooksでShakespeareの英文も無料で読める。
拙い英語ではあるが読み取りの補助としている。

とはいえ、訳文の不味さというつもりもない。あくまで私にはわかりにくいだけのことだ。話の筋だけを理解したいだけなら漫画版などを読めばいい。
噛み締めてみたいからこそ英文と訳文を片手に読んでいるわけでもある。
この作業がもう本当に楽しい。
いちいち「ここは違うだろう!?」と訳文や、ハムレットに突っ込んだり考えさせられたり共感しながらである。

藤原竜也主演ハムレットの舞台のYouTubeがネットにあったので開始5分ほどみていたが舞台演出や人によって同じ脚本でもまったく印象が異なるのだなと感じた。

ハムレットの前にマクベスを読んだが、文章としてはマクベスの方が好きだ。
短いのもあるが、韻やリズムがまとまって洗練されている気がする。
とはいえ、まだハムレットを読み終えていないので初読はストーリー理解に留めるつもりだ。
これは恐らくだが読めば読むだけ介錯や理解が拡がる物語であると思われる。
二読、三読と繰り返して噛み砕いていきたいと思う。

楽しいよ!シェイクスピア!




2013年11月2日土曜日

耳を傾けるということ

人の話に対して耳を傾けるということ。
異なる意見を持つもの、自身よりも下だと思うものに対してこそ
そうであらねばならないのではと感じた。

普通、自分より上の人の話はちゃんと聞く。自分と同等の人の話も聞くだろう。
しかし、自分よりも下のもの、未熟だと思っているものに対してはどうだろうか。
頭から否定してはいないだろうか。
どうせ大したことではないとタカをくくってはいないだろうか。
異なる意見を持つもの、自分に対して否定的なものの場合も同様ではないだろうか。

話されることを疑いつつ聞くことに関しては私は悪いことだとは思っていない。しかし、たとえそうであっても話は最後まで聞くべきだ。

彼は自分とは異なる世界で生き、自分とは異なる思考を持ち、彼自身とは異なるものとして私を見ている。
そんな人間に対してわざわざ反対意見を表明してくれる、否定してくれる。
そんな人に対しては感謝の念を持てばよいのではないだろうか。

全ての意見を実行しなければならないわけではない。
取捨選択は私次第だ。
しかし聞く前からあれやこれやと否定するよりは話させるだけ話させて判断を控えた後、考慮し、選択する方がよっぽどよいものが出来るのではないか。

そもそも私は自身のとるに足りぬ頭しか持っていない。
そこに本を読むことで多少なりとも歴史上の偉人や現代の賢人たちの考えを取り込む。
しかしそれは私の頭というハードの中にインストールされたソフトにすぎない。ハードの性能を大きくは越えられない。
だが、人の意見に耳を傾けることで異なるハードの異なるソフトから導き出された考えを取り入れられる可能性もある。

自分が普段聞かない、あまり聞きたくないとおもう人の話ほど耳を傾けてみよう。そこには自分の認識していない自分、自分が知りたいことがあるかもしれない。

議論好きなベンジャミン=フランクリンが友人から言われた言葉を思い出す。
「君はすぐに否定ばかりするから、誰も君と話したがらないよ。
だから君の知識は今以上ひろがらないのだ。今の取るに足らない知識からね。」
これを調べていたら次の言葉にぶち当たった。
同じくベンジャミン=フランクリンの言葉のようだ。
「愚か者の第一段階は、自分をよりよく見せようとすることである。
第二段階は、それを他人にしゃべることである。最終段階は、他人の考えを馬鹿にすることである。」
ああ…ぐさぐさと突き刺さる。
愚か者の心に。

汝、リンカンの言葉も忘れるなかれ。

I don't like that man. I must get to know him better.

私は自分とは違うもののことを、より知ろうとせねばならない。


2013年11月1日金曜日

軽い口について

自省録に次の一文がある。
以前は気にもとめなかったが今回読んでいくと妙に引っかかった。

"人に説明する際短気を起こさぬこと"

元来、というより本日も昨日も家族にスマホについて説明する際に起こった。相手に伝わらぬと少し声を張り上げてしまう。
「だから…!」と言った具合に。
その場合、大概は口から考えもせず同じ内容を繰り返すだけだ。何故相手の理解度を確認しつつ進められないのか。

同様に、話し方が軽いのではと感じる時がある。
冗談を言う時など意図的にする場合もあるが大概は口から反射的に出た言葉だ。

つまり相手が投げた球を打ち返してしまう。ムキになって。
これを正したい。
私の理想はキャッチボールか、バッテリーの会話である。
受け止めたいのだ。

よって、本日の午後からは相手の言葉をいったん飲み込むことにした。
ウンとワンテンポ置く。
早口でまくしたてるのではなく、そこで一呼吸置く。
それだけでボールはミットの中に入るのではないか。
これを続けていこう。

取り組むべきは自分自身であるということ

人格を高めるための意識は行ってきたつもりだが、
何度も同じ事を繰り返しては後悔する。
前も思ったはずなのに、書き連ねたはずなのにと何度思い返せばよいのか。
尊敬するリンカンの以下の言葉を言えるようになりたいのだが
なかなかそうもいかない。
"All my life I have tried to pluck a thistle and plant a flower 
wherever the flower would grow in thought and mind."
ペンデュラムを前の彼女から教えてもらった。
これは不思議なもので「時計回りに小さく」「左回りに大きく」等と念じていると
実際にその通りに動き出す。
この単純な石の動きが自分にリラックス、集中を与えてくれるような気がして
前々から再度取り出そうと思っていたが、今回ようやっと取り出してきた。

「時計回りに」と念じてみたところ、久々なためか念じたとおりに回らない。
それもそのはずチェーンのねじれからくるものなのかもともと左回りに回っていた。
だが、ここで思ったことは視覚的に(現実的に)左回りに回っていると
それを見ながらなかなか右に回るイメージが浮かばないのだ。
目をつぶったらどうだろうとおもって目をつぶってやってみると
案外うまくイメージは、できる。
が、ちらっと眼をあけて石の状態を見てみると、
目で石を捉えている状態と異なって集中が足りないからか石は左への回転が
小さくなる程度で右には回ってくれない。
目を開けていれば、イメージはどうしても左にいってしまい、石は大きく左に回り始める。

さて、どうしたものかと思ったが、いったん石を手で止めてみた。
そして、「時計回りに、大きく」と念じていると今度は目を開けたままでもイメージができ、
次第に石は回り始めた。

私の貧弱なイメージ力のこともあるかもしれないが
少なくとも私に関してはどうやら今ある状態に流されてしまうらしい。
意識しても、意識しても、どうやら今ある状態、自分の望まない状態を願ってしまうようだ。
ならば、石をいったん止めるしかあるまい。
そして、口に出して強制的に念じ、イメージを作り出していくしかあるまい。
これは私の人格に関しても同じことが言えるのではないだろうか。

つまり、人格を変えるためにはまず悪癖を自覚すること。
そして、口に出していくこと、言葉にすることではないだろうか。
言葉、態度によって自分の望む方向へ人格を変えていく。
まず言葉を変えることだ。
それをやらねばならない。

ペンデュラムをしていると頭の中がクリアになる気がする。
雲が晴れていくかのように。
頭の中に覆いかぶさる雲をペンデュラムで自由に消しているような感覚なのだ。
これは今後も続けていこう。

自分自身に

しばらく放っておいた当Blogに関して何度目かの改題、投稿継続の挑戦を行うことにした。
新題は「Ta eis heauton」。
個人的には愛読書であるといえる著作だが、実はまだそのすべてを読めてはいない
ローマ帝国皇帝Marcus Aurelius著「TA EIS HEAUTON」より
そのまま題名を取らせていただいた。
日本語では自省録となり、岩波文庫等から出版されている。
同著P3の訳者序では原題は「自分自身に」であるとのこと。
当Blogの目的とこの原題の意味が完全に合致しているため使用させてもらいたいと思っており
問題がなければこのまま続けさせてもらいたい。

自省録:http://www.amazon.co.jp/dp/4003361016

自分自身に対して言いたいことはたくさんある。
日々の反省しかり、後悔しかり、叱責しかり、覚書しかり。
そうしたものをこれまでは個人用Twitterやノートに書き連ねており今後もそのつもりではあるが、
あくまで散文程度のものであるため、ある程度散文を書き溜めたのち
こちらにまとめていきたいと思っている。

自分自身を客観的にみるための文章ではある為、客観性は意識するが
あくまで私個人のことである。
Blogというメディアにしたのも、検索して後から見返しやすいのではというだけの理由である。
他者から見れば何を小さなことをということがほとんどであろうし
文章としても読みにくいのではないかと思う。

私個人がどうありたいか、どうあるべきだったか、
何をめざし、何のために動くのか、一個人の内省を書き連ねることに
一抹の恥ずかしさを覚えつつもこれを習慣づけられるようにしたい。

かつて大病をした。
自分はその時に死を覚悟した。ここまでだと思った。
が、今も生きている。生かされている。
それはひとえに死を覚悟した瞬間に、私自身が抗い、人からの助けを受けて今に至るのである。
それまでは漫然と生きてきた。そばにあるものが当然だと思った。
しかし、そこから人生を考えるようになった。そばにあるものが当然のものだと思わなくなった。
いや、今も甘えとして当然だと思っているものはあるかもしれない。
だが、いつかなくなる、失う、ということは心の片隅にあると思う。

日々何も思わず、漫然と生きることは私には耐えられなくなった。
かといって、何も意識しなければ、会社と自宅の往復であり、特に何の発見もない日常でもある。
このような状態が続くことが嫌である為、意識を考えようと思った。
その結果が自分への反省や覚書等の記録であるのだが、それでもまだ足りない。
何度も同じことを反省するのだ、何度も同じことを思うのだ、何度も同じことを考えるのだ。
何も修正されていなければそれは意味がないことだ。
何度思えば修正される?
これが人生の暮れまで続き、死の瞬間に自分の理想像を抱きながら死ぬのは御免こうむる。

よって、このBlogに書き連ねることで意識をしたい。
このBlogに書くことで意識を修正したい、自身を成長させたい。
それが私の願いであり、自分自身へのメッセージである。