2013年11月30日土曜日
坂の上の
家の近くのはずなのに、まったく知らない景色。
だいたいあの辺のはずだという
目的地までのおおよその方角だけで歩いていた。
途中で竹藪に囲まれた細道に入ったり、
坂の上をのぼったり、どっちの道が良いかを選択しながら。
舗装された、踏み固められた道もいいが、
わくわくするのはほとんど誰も通っていないような道だ。
道のないところをかきわけていくのが好きだ。
不安もあるけれど、方角さえなんとなく見当がつけば後は進むのみ。
恐らく左の道が正解だと思いながらも、
行ってみたい、見てみたいという理由で右の道を選んだ。
あの坂の上に行ってみたいと思わないか。
あの坂の上に見える雲を目指して、
この手を伸ばしてみたいと思わないか。
そんなことを考えながら。
人生を語れるような年でも、経験もしていないが
こんなものなのかもしれないなどと思った。
すくなくとも、自分はこういうわくわくすることが好きなのだ。
凝り固まるのではなく、自分を使い果たしたいのだ。
2013年11月29日金曜日
他者の目から
彼はとても話しやすい。
彼はいつも私の話を聴いてくれる。
彼は熟慮の上で行動する。
彼は賢明な人だ。
今の私は人からこう思われたい。
よって、そう思われるように行動すること。
そう見えるようなふりから始めること。
2013年11月28日木曜日
愚者の証明
2013年11月27日水曜日
2013年11月26日火曜日
2013年11月25日月曜日
事実を事実として認識すること
君の持つものは目の前の手の中にのみある。
両の手で作った器の中にあるのだ。
そこに在るものが君の持つものだ。
今は何も見えないかもしれない。
しかし、そこに君の為したこと、
これから為すものが入っていく。
その手の中にあるものが君の持つものだ。
人から称賛されようと、評価されようと、
貶められようと、馬鹿にされようと、
そこにあるものが間違いなく君のものだ。
甘言、苦言、数多えるだろう。
そのたびに君は調子に乗るかもしれない。
しかし、手の中にあるものをしっかりと見据えよ。
事実を事実として見据え、積み重ねよ。
手の中にあるものは、間違いのない事実となる。
こうなりたかったから偉いのではない。
こうなったから偉いのだ。
君は人生において自身の手の中にあるものを埋めねばならない。
2013年11月24日日曜日
壁の向こう側に
2013年11月23日土曜日
2013年11月22日金曜日
不安になる時
慌てずに
雑感
2013年11月21日木曜日
自身の性格に向けて
2013年11月20日水曜日
読みたいもの
2013年11月19日火曜日
自身を省みること
ならず者は自分自身をならず者とは思わない。
当然の権利だと思っている。
話せばわかるとは犬養毅の弁だが
話すことを拒否するものに対して
話しかけることは無意味でもある。
徐々に遠ざけるとよい。
しかしそれは自身にも起こりえることである。
世の中に当然のものなどないのだと
かつて病気をした際に学んだつもりだが
それでも未だに、当然と思う時も多い。
まず自身を省みること。
自分の頭で考えよ
2013年11月18日月曜日
最後の日には
前回投稿について
人生最後の日の生き方
口より発する言葉は真実であり、丁寧である
心より人を褒め、賞賛する
人の話に耳を傾け、そっと背中を押してやる
何をも為せぬことはない
起こらぬことに不安はない
今日は人生最良の日。
2013年11月17日日曜日
日々の糧
2013年11月16日土曜日
散歩すること
2013年11月15日金曜日
習慣は物事を促進する
今週頭からいえば昼からの勤務の終了が23時。
帰宅して0時前、そこから風呂に入り、本を読んだり、ゲームをしたり、Blogを書いたり。
気付けば2時や3時が当たり前となっている。
そして週の後半は夜勤であり
休めるときは横になって休んでいるが
それでも2,3時までは起きている。
仕事だからといえばそこで終わるが
やはり人間は夜眠らないと、一日中頭がぼーっとする。集中力もない。
よりより生活のための仕事のはずなのに仕事以外の時間で影響が出るようでは
本末転倒である。
そんなこんなだが、昨日から今朝にかけてほとんど休めなかった。
眠るには寝ていたのだが、まとまった時間で休みがとれていなかったのである。
日中は忙しかったというわけでもなく、眠たいけど、寝たくないという
気持ちの方が大きかったのかもしれない。
仕事中はいろいろと仕事を進めており、5時ごろまで起きていた。
そして、5時ごろにようやっと仕事が片付き、
少し横になって休んだ。
30分後起き上がってみると、体がふらふらする。
額は冷や汗をかき、息が荒く、正常な思考ができない。
夜勤は常時ひとりなのだが、この時ほど早く次の担当に来てほしいと思ったことは
最近では記憶にない。
よろよろして、千鳥足で、挙動不審もいいところだ。
次の担当になんとか業務を引き継いだ後、早々に帰らせてもらった。
家に帰って5時間ほど睡眠をとったところ楽になり
やはり睡眠不足だったのだと思ったが、体のしんどさ、頭の中の雲は晴れない。
ちょっと日の光を浴びようと思い立ち、昼ごはんもかねて
自転車で近くのうどんやまで行ってみた。
道中、多少の坂があるが、なんとなく息が切れる。
運動しなきゃいけないと思い、ついでに20分ほど遠くのスーパーにまで
足を延ばすことを決めた。
ついでに胃が痛かったので大根でも買って大根おろしでも食べようと思い立ったのもある。
その道中で杖を突いたおばあさんがひとりでゆっくりと歩いていた。
恐らく横の景色を見たかったのだろう。
体の向きを変えて、ガードレールにつかまるまでの間も
ゆっくり、のんびり、息を切らしながら行動する。
その横を自転車で通り過ぎていく私。
こんな高齢のおばあさんでも自分の足で歩いている…
自分は運動をしようと自転車に乗ったが、いつもは車だ。
それも最近は運動をしていない。
自分はいったい何なんだと感じてしまった。
自分があのおばあさんくらいの年になった時、自分は歩けるだろうか。
横の景色を見るために、今の私なら首を横に曲げるだけだ。
しかしおばあさんは体ごとゆっくりと向きを変えていった。
恐らくそうすることしかできないのだろう。
今回のように思い立ったように運動したり、
身体によいといわれる食材を摂ることに意味はあるのだろうか。
それよりも毎日の習慣が大切ではないのか。
やるなら毎日やれ。
良い習慣は良い方向に、悪い習慣はより悪い方向に。
自分がつけたい習慣を一度列挙してみる必要があるかもしれない。
2013年11月14日木曜日
読書について
他の観点から考えを繋げられるようになる。
読書は知識だけのものではない。考えるということそのもの。
頭の中にぱっと光を灯してくれる行為であると思う。
だからこそさーっと一冊を終わらせることはもったいないと思っている。
2013年11月13日水曜日
虚心坦懐
2013年11月12日火曜日
思いやりのある人
“I remember my mother's prayers and they have always followed me. They have clung to me all my life.”
私は母の祈りとそれがいつも私を守ってくれていることを覚えている。それは私の人生を通じて、付いて離れたことはない。
"All that I am, or hope to be, I owe to my angel mother."
今の私、なりたいと思う希望全て、母からの守りをもらっている。
うまく訳せないが、母への感謝の言葉だ。リンカンは実母を幼い時に亡くした。継母との関係も良好で、継母からも愛情をかなり与えられたらしい。
彼の言う母とはどちら、もしくは双方なのだろう。私には幸いなことに両親共に健在である。今もお世話になっている、なり続けている。
彼らが私にしてくれてること、その視線を他人に向けてあげれば…。
難しいとは思うが少しでもそうなれるように。
今日のことは風邪で早退した同僚からの電話をとった際の出来事が発端だった。
切羽詰まった声で「電話もらったみたいですが」とかかってきたが、私は部署とは別の部屋にいたこたもあって「かかってきた番号とかわからない?」と返した。
すると、確認して折り返すということで終話したが、もっと思いやりをもって聞いてるよと言ってあげればよかった。一言労わればよかった。
同僚が気の利かない人と思ったかどうかはわからない。
しかし、私にとっては少しだけ反省を残した。思いやりのある対応とは何か、そこから考えたことである。
思いやりのある人になりたい。
簡単なことだ
2013年11月11日月曜日
いつやるのか
2013年11月10日日曜日
昨日の自分との約束を守るよう努力することだ
2013年11月9日土曜日
時間を浪費してはならない
2013年11月8日金曜日
一日を振り返って
意味は「自分自身に」であるそうだ。
元々は自分自身の一日を振り返って、自分へのメッセージを書くつもりであった。
そして、今日の一日を振り返ってみたところだが
正直なところ仕事という面ではベストを尽くしたと考えていた。
難しかった作業もやり終えたし、
仕事とは関係のない組合の弁論大会に関しても参加の意思を伝えた。
人前でしゃべることが好きなのだが、なかなか機会がない。
だからこそこれぞ好機とばかりに飛びついて参加の意思を伝えたところ、
上司たちの間では「出るとしたら彼だろう」ということでほぼ予想されていたらしい。
案の定ということだ。
仕事という面ではなかなかよくやったと思うから
今日の当Blogは自分に満足した、いい一日だったと書こうかと思った。
が、それを考えると最初の当Blogのタイトルの意味と異なる気がする。
もちろん自分をけなすだけのBlogではないが、あくまで自分へのメッセージでありたい。
そういうことを考えていると、
仕事のことだけを考えている自分に気づく。
違う。
確かに仕事はベストを尽くしたと思った。
しかし、1日は24時間あるうちのたかだか8,9時間程度。
残りは何していた?
そう考えたら今日は惰眠をむさぼっていたとか
読書が1時間半しかできてないとか
色々と反省点が浮かぶ。
仕事は確かに満足ができた。褒めてもいい。
しかし、今後、自分がどんな仕事に就こうとも、より自分を高めていくためには
一見成功したように見えても、問題点はないか探すべきだと。
探す努力をするべきだ、よりよくなるように改善していくべきだと。
このBlogをしていなければ、今日は一日よくできたと満足したままで終わっただろう。
そういう意味ではありがたい場所でもある。
2013年11月7日木曜日
偶然はあてにできない
ひとつは仕事中の作業で、いつもは見ていない箇所をたまたまちらっと見たところ
その日に限って、前の担当者が誤った処置をしていた。
別に私は責めるつもりもなかったし、あちらもそう感じてくれていたと思う。
笑えるような失敗ではあるが、仮にこれを私が発見できなければ
恐らく騒動になっていただろうから笑って済んでよかったと思う。
これは正直、たまたま、見ただけだ。
いつもはチェックなどしていない。
担当を信じていると言えば聞こえはいいが、要は私がベストを尽くしていないのだろう。
ちらっとでも見るだけで済む内容をいつもは抜かしているのだから。
ふたつめは仕事から帰宅後。
私は本日は遅いシフトで退社が遅いため、各部署の人間からカギを預かる。
そして、預かったカギを耐火金庫の中に置いて帰宅する。
めんどくさい時はポケットの中にいれておくが、退社時にはポケットの中をチェックする。
もちろん本日も行った。
が、今日は日中はワイシャツで、夜以降は上着を着ていた。
そして自分が上着を着ていることを着ているのに忘れており、
上着のポケットだけをみて、退社したらしい。
その後、帰宅してワイシャツを洗濯に入れようとして鍵があることに気づいた。
この鍵がないと翌朝、出社した別部署の人間は部屋に入れない。
朝シフトの人間は真っ青になるだろう。
急いで車で会社に戻りカギを戻した。
これの何が偶然かと思うかもだが、私はワイシャツのポケットの中をあらためずに
洗濯かごにとりあえず入れておく場合もたまにある。
今日はたまたま、ポケットの中をあらためた。
しかも、帰宅してすぐに気付けた。
もしも気付けなければ…おそらく明日の朝、8時すぎに電話が鳴り
私は真っ青な顔になって、今すぐ行く!といって自転車をこいだかもしれない。
20分近く他部署の人間を待たせて。
自分としてはぞっとする話である。
正直、運がよかったといえるのだろう。
こういう運を楽しむ余裕はある。
ただ、ラッキー♪で楽しんだ後は、そこで終わらせたくはない。
ドラッカーは何かの著作の中で言っていたはずだが
「偶然はあてにはできない点にある」
ネットで出てこなかったため本棚を調べてみた。
問題解決についての内容で以下とある。
"奇跡の困った点は、稀にしか起こらないことにあるのではない。あてにできないことにある。"
「プロフェッショナルの条件」のP153
2013年11月6日水曜日
赦すこと赦されること
2013年11月5日火曜日
私は世界の中の一人にすぎない…が
顔を見るにあちらも少し同僚店員に対して動揺したのだろう。
一瞬、このままトレーを出していいものかダメなものかを悩んでいるように見えた。
そうこうしてると先ほど踵を返すように奥に行った店員が戻ってきて
その様子を見て「しまった」と思ったのだと思う。
少しきまり悪そうな顔で、バーガーを掴み、ナプキンを下に敷いた後で置き直した。
掴み、そう、文字通りむんずと掴みという感じである。
こちらとしては、最初に「んっ?」と思った後は
ああ、客のいない時間帯とはいえ隣の連携素早いなとか、
あ、気まり悪そうな顔してるとか
ああ、バーガーをむんずと掴んだ(笑)
といった感じでどっちかといえば面白がる感じで店員を見ていた。
で、トレーを運びながら考えたことが
あの店員さんも多分今日一日だけでもかなりの数の接客を行い、
ハンバーガーを用意してきたのだろうと。
彼女にとってこのハンバーガーは一日の数多の中の一個だが、
私にとってはこれはその日の糧なんだよなぁと。
別に店員さんについてどうこうというつもりはなく、
私も同じことをしてないだろうかということ。
そして、食事を提供する店というのは少なからずそういう趣を持つのではと思い
大変だなぁと。
コリン・パウエル氏の著書にこういう言葉がある。
"世界にとってあなたは一人の人に過ぎないかもしれないが、
一人の人にとってあなたは世界になりうる"
今日、父の携帯を俗にいうガラケーから
スマートフォンに変えた。
家族は全員iPhoneであり、父が唯一のAndroidユーザとなった。
で、私は一応今はシステム業界に携わっているため、なんだかんだと質問される。
しかしながらAndroidはわからない。
手あたり次第一からさわり、調べることになる。
で、ネットゲームをしているときも父から再三呼ばれ、自分でもわからないことを聞かれる。
最初ははいはいと受けていたが、あまりのAndroid携帯のわからなさに
父に対してではなく、Android携帯に対してグチグチ文句をいった。
「なんだよこれ!」「だからAndroidは嫌いなんだ」「意味わからん」等。
父はそんな私の様子を見て「ちょっと自分で見てみるわ」と持って帰っていった。
結局、思い直してもう一度見せてもらおうと父のもとに向かうと解決していたらしい。
今日は父にとってスマホデビューの日だった。
なのにそれに文句をいう。それも人にじゃなくて物に文句を言う。
そして、ようやっと家族全員でLINEが出来るようになり
(それまで父の携帯が対応してないためできなかった)
妹2人がLINEで家族のグループを作り、そこで会話を始めた。
上記のイライラの上に、妹の会話で毎回通知が鳴り正直イライラ。
それに対しても母に、LINEを消すことも検討するとか、会話はいいけど通知がうっとおしいだの
文句を言った。
人ではなく物に。
私はなんて余裕のない小さな人間なのだろうか。
"世界にとってあなたは一人の人に過ぎないかもしれないが、
一人の人にとってあなたは世界になりうる"
情けない。
2013年11月4日月曜日
過去を消すことは出来ない
自分がどういう時に腹を立てるか
2013年11月3日日曜日
ハムレット
2013年11月2日土曜日
耳を傾けるということ
I don't like that man. I must get to know him better.
私は自分とは違うもののことを、より知ろうとせねばならない。
2013年11月1日金曜日
軽い口について
取り組むべきは自分自身であるということ
何度も同じ事を繰り返しては後悔する。
なかなかそうもいかない。
wherever the flower would grow in thought and mind."
これは不思議なもので「時計回りに小さく」「左回りに大きく」等と念じていると
実際にその通りに動き出す。
この単純な石の動きが自分にリラックス、集中を与えてくれるような気がして
前々から再度取り出そうと思っていたが、今回ようやっと取り出してきた。
「時計回りに」と念じてみたところ、久々なためか念じたとおりに回らない。
それもそのはずチェーンのねじれからくるものなのかもともと左回りに回っていた。
だが、ここで思ったことは視覚的に(現実的に)左回りに回っていると
それを見ながらなかなか右に回るイメージが浮かばないのだ。
目をつぶったらどうだろうとおもって目をつぶってやってみると
案外うまくイメージは、できる。
が、ちらっと眼をあけて石の状態を見てみると、
目で石を捉えている状態と異なって集中が足りないからか石は左への回転が
小さくなる程度で右には回ってくれない。
目を開けていれば、イメージはどうしても左にいってしまい、石は大きく左に回り始める。
さて、どうしたものかと思ったが、いったん石を手で止めてみた。
そして、「時計回りに、大きく」と念じていると今度は目を開けたままでもイメージができ、
次第に石は回り始めた。
私の貧弱なイメージ力のこともあるかもしれないが
少なくとも私に関してはどうやら今ある状態に流されてしまうらしい。
意識しても、意識しても、どうやら今ある状態、自分の望まない状態を願ってしまうようだ。
ならば、石をいったん止めるしかあるまい。
そして、口に出して強制的に念じ、イメージを作り出していくしかあるまい。
これは私の人格に関しても同じことが言えるのではないだろうか。
つまり、人格を変えるためにはまず悪癖を自覚すること。
そして、口に出していくこと、言葉にすることではないだろうか。
言葉、態度によって自分の望む方向へ人格を変えていく。
まず言葉を変えることだ。
それをやらねばならない。
ペンデュラムをしていると頭の中がクリアになる気がする。
雲が晴れていくかのように。
頭の中に覆いかぶさる雲をペンデュラムで自由に消しているような感覚なのだ。
これは今後も続けていこう。
自分自身に
新題は「Ta eis heauton」。
個人的には愛読書であるといえる著作だが、実はまだそのすべてを読めてはいない
ローマ帝国皇帝Marcus Aurelius著「TA EIS HEAUTON」より
そのまま題名を取らせていただいた。
日本語では自省録となり、岩波文庫等から出版されている。
同著P3の訳者序では原題は「自分自身に」であるとのこと。
当Blogの目的とこの原題の意味が完全に合致しているため使用させてもらいたいと思っており
問題がなければこのまま続けさせてもらいたい。
自省録:http://www.amazon.co.jp/dp/4003361016
自分自身に対して言いたいことはたくさんある。
日々の反省しかり、後悔しかり、叱責しかり、覚書しかり。
そうしたものをこれまでは個人用Twitterやノートに書き連ねており今後もそのつもりではあるが、
あくまで散文程度のものであるため、ある程度散文を書き溜めたのち
こちらにまとめていきたいと思っている。
自分自身を客観的にみるための文章ではある為、客観性は意識するが
あくまで私個人のことである。
Blogというメディアにしたのも、検索して後から見返しやすいのではというだけの理由である。
他者から見れば何を小さなことをということがほとんどであろうし
文章としても読みにくいのではないかと思う。
私個人がどうありたいか、どうあるべきだったか、
何をめざし、何のために動くのか、一個人の内省を書き連ねることに
一抹の恥ずかしさを覚えつつもこれを習慣づけられるようにしたい。
かつて大病をした。
自分はその時に死を覚悟した。ここまでだと思った。
が、今も生きている。生かされている。
それはひとえに死を覚悟した瞬間に、私自身が抗い、人からの助けを受けて今に至るのである。
それまでは漫然と生きてきた。そばにあるものが当然だと思った。
しかし、そこから人生を考えるようになった。そばにあるものが当然のものだと思わなくなった。
いや、今も甘えとして当然だと思っているものはあるかもしれない。
だが、いつかなくなる、失う、ということは心の片隅にあると思う。
日々何も思わず、漫然と生きることは私には耐えられなくなった。
かといって、何も意識しなければ、会社と自宅の往復であり、特に何の発見もない日常でもある。
このような状態が続くことが嫌である為、意識を考えようと思った。
その結果が自分への反省や覚書等の記録であるのだが、それでもまだ足りない。
何度も同じことを反省するのだ、何度も同じことを思うのだ、何度も同じことを考えるのだ。
何も修正されていなければそれは意味がないことだ。
何度思えば修正される?
これが人生の暮れまで続き、死の瞬間に自分の理想像を抱きながら死ぬのは御免こうむる。
よって、このBlogに書き連ねることで意識をしたい。
このBlogに書くことで意識を修正したい、自身を成長させたい。
それが私の願いであり、自分自身へのメッセージである。