2012年12月6日木曜日

慎み深さと、意見を明らかにしないことは同義ではない

5日に公示された選挙戦も白熱しつつあります。
私の住む田舎の地域でも選挙カーから流れる音を聞くだけで
そう感じる為、都心部ではいっそうそうなのでしょう。

ブログや新聞、ネットなどのメディアを見ていると
入れたい政党がないということを感じられる人々も多いのかもしれません。

たとえば原発ひとつとっても、残す残さない、脱原発、卒原発。
それが言葉を変えただけとしか思えないような、
違いが明確にはわかりにくいということも不安点ではありますが、
まぁ色々な主張があるのは喜ばしい限り。

E=mc^2という特殊相対性理論によって表された希望、および恐怖
2011年までの世界は原発という点に限って言えば
希望に生き、2011年からは恐怖に変わっているといえるのではないかなと
個人的には思っています。



TPPにしても、外交政策にしても同じ。

どうすることが自分たちの為になるのか、が自明の理であれば
皆そう動くでしょうが、人にはそれぞれ意見と立場があるため
一概に決めることは難しいはずです。

よって、多数決で選ばれた意見をもつ政党から
現状の最適解をなんとかひねり出すしかないのではと。
個人的には、満場一致で決められることはもう一度反対の立場から
議論を重ねたほうがいいと思ってすらいます。

人間100人いれば100通りの考え方があると思われるため
全部に賛成というよりは、一部には賛成、一部には反対という方が
自分の意見を持ってて、すごく人間らしいと思います。
個人的にはそれが一番よいと思うのです。

ただ、その中でも支持する組織を決めなければいけない。
それも期日までに。
考える時間はたくさん用意されているのだから。
もうこれは個々人の決断の問題ですよね。
その決断に、成人としての責任を持たなければならないと思います。
それが選挙権という権利であり、投票の義務なのでしょうから。

自分の一票が社会を変える、なんてことは私は思ってません。
多数決ですから。
だいたいは差をつけて1位、2位、3位と順位が決まっていきます。
けれど、50対50で残り1票が自分であった可能性は
統計上限りなく低く0とみなしてもよい値だと思いますがありえないわけではありません。
誰もが自分の票が決定の1票となりえる可能性を秘めていると。

そんな中で、賛成でもなければ反対でもない、興味もない、希望が持てない
諸々色々な理由はあれど、結局とった自分自身の行動が
"放棄する"ということは決断の責任を人に擦り付けるだけ。
選挙に行かないという"権利の放棄"を
選択肢のひとつだと思っていることはおかしい。

日本人は慎み深さを美徳とする民族なのだと個人的には思っていますが
求められたときに意見を明らかにしないことは
慎み深さでもなんでもなく、ただ決断の責任を他者に擦り付けてるだけ。
それは主張でもなんでもありません。

同じ理由で国会での投票放棄とか、欠席とか絶対ありえないと思っています。
議員がそういうことをするから何割かの国民は同じことをするのかもしれませんね。
でも、決められない政治が続くのは、その何割かの国民が
自分の責任を擦り付けてるからなのかもしれないとは思います。

私個人も意見はありますが、それが通らないなら通らないでそれは仕方ない。
でも、通らなかったから諦めるのではなくて
決まったことは決まったのだと受け入れた上で、何とかよい方向になるように
一成人として、社会人として、生活したいと思っています。



ううむ…政治的な投稿が多くなるのが悩みの種;;
もっと写真とか投稿できるようなブログにしたいなぁ。

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