2012年1月19日木曜日

知的生産の技術と思考の整理学

◎書籍情報
知的生産の技術
梅棹忠夫著
岩波新書(1969-7-21)
ISBN 不明

思考の整理学
外山滋比古著
ちくま文庫(1986-4-24)
ISBN 4-480-02047-0

◎思ったこと
知的生産の技術に関して、最も心に残ったことは
京大式カードとボールペンの使用、この2点である。
筆者が恐らく本書の中で提言したかった部分のほとんどは京大式カードだと思われる。
実際、本書は様々な知的生産の技術に触れてはいるがその根底に流れているのは
京大式カードの思考であると見えるからである。
実は私は受験生時代に和田秀樹著「受験は要領」を読み、実際に使っていた。
当時買った大量のカード(500枚綴り?)は今も残っている(笑)
この前、過去の荷物を整理した時に発見し、今回、
その提唱元である知的生産の技術を読むに至った。
偶然とは面白いものである。
今でこそ私は備忘録にTwitterを使用したり、Evernoteを使用する等
デジタルデータ主流になっているが、十分に応用できるものであると感じた。
これに関しては再読した際にもっと突き詰めて考えてみようと思っている。

余談だが斉藤隆氏の「三色ボールペン勉強法」は
知的生産の技術にある方法論を結合、発展させたものであり、
恐らく年代からしても斉藤隆氏はこの本を
三色ボールペン勉強法を始めた高校時代に直接読むなり
間接的に聞くなりして影響を受けたのではないかと考えている。
全く別のところで読んだ「三色ボールペン勉強法」が意外なところで繋がっていて
多分高校時代に読んだんだろうなと考えるのは面白い。

さて、続いて「思考の整理学」である。
目次やタイトルを見たところ、一見して「知的生産の技術」の影響を受けていると思い
今回、まとめて著すことにしたが実際は色々と異なっていた部分も多かった。
例えば、「知的生産の技術」では「忘れないために」カードを作る。
つまり、忘れることは悪である。
しかし、「思考の整理学」では"見つめる鍋は煮えない"と言う。
寝かせること。つまり、忘れることを勧めているのである。
このスタンスの相違は面白い。
内容としては立場によっては逆と思える部分もあれば、
多少(あくまで多少)発展させている部分はある。
しかし、17年という歳月にしては変わっていないに等しい。
どちらも個人と個人の考え方の観点の違いであるからである。
とはいえ、どちらも古さは否めないものの古典的著作であり、
その根底は現在にも通じることである。

これらはいわゆるハウツー本ではない。
これを読んでその通りにしているのでは能がない。
あくまで個人の考え方だ。自分で考えて、自分なりのアレンジを加えること。
それを行うことで初めて本書が活きてくる類のものである。



「知的生産の技術」はハウツー本にはしたくないと書き、
この本を契機として方法論等が盛んになることを願うと書かれていたが
17年後に登場した「思考の整理学」も私などが思う17年という歳月にしては
思ったほどは方法論の研究は変わっていないように感じる。
17年の間に何も論じられてこなかったのだろうか。
それどころか、知的生産の技術の発表から42年経った現在でも、

これだけコンピュータやインターネットが進化した情報化社会の今でも
根本は何も変わっていないのではと考えてしまった。
ひょっとしたらレオナルド・ダヴィンチが活躍した頃と
ほとんど何も変わっていないのかもしれない。
これは常々思っていることだが現世人類が文明を起こして以降、
人間は進化しているのだろうか?
方法や環境、考え方は変わっても結局根本は何も変わっておらず
同じことを繰り返しているのではないかと考えてしまった。
確かに発展はしてきたのだろうが、進化に比べたら微々たるものではないだろうか。
私等が思うちっぽけな31年という歳月からすれば気の遠くなるような数字だが
こういう個人の葛藤が綿綿と続いてきたのではないだろうかと考えてしまう。

この次は同様の系譜と思われる勝間和代著の「効率が10倍アップする新・知的生産術」
を読むつもりである(実は本記事投稿時点では既に読了済みである)。

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