2013年11月4日月曜日

過去を消すことは出来ない

過去を消すことは出来ず
過去を見ないことは自分を認めぬ事となる。
過去は行動、決断、思いつき、反応、自分自身の集合である。
今は意味をなさなくてもいつかは意味をなしてくる。
いや、意味をなさなくてもきっと無駄なことではない。
過去があって今がある。
そして今があって未来がある。
ならば過去があって未来がある。

故にそれを消そうとすることは
自分の愚の骨頂に過ぎない。
私は自分がある目的を持って記載していたノートに対して、今日からまた以前の目的に戻した。
そして、間の履歴を消そうとした。
いや、実際ノートのページを切り取った。
切り取った瞬間に後悔した。
私は過去の自分の思いつき、行動を消そうとしたと。
切り取ったページは持っておくつもりだ。

過去を消そうとした自分への戒めとして。
過去があって現在がある。
過去を恥じるものに恥じない未来はない。

自分がどういう時に腹を立てるか

人間の感情には喜怒哀楽がある。
これはあくまで大きく分けてであって、細分化していくともっともっと分かれるのだろう。
自分が外界から刺激を受けることで、反応し、結果が生まれる。
いずれも大切な感情である。
なんの反応も示さない心は麻痺しているだけだ。

そう、怒りも負ではない。
怒りはエネルギーになる。
怒りを制御せず身を任せることが負なのだと考えている。

コリン・パウエル氏の「リーダーを目指す人の心得」という著作の中で
上官に対して怒れるパウエル氏の文句をじっと聞いた後で、上司は彼の肩をポンと叩き帰宅する。以下の一言を残して。
コリン、怒りは乗り越えるためのものだよ。じゃあな」

怒っていい。
そもそも私は人からはそう見られてはいないと思うが父譲りの短気な性格だ。
頭に血がカッと登る。
ただ、人前だと自制するし、そこまでの怒りに巡り合ったことがないだけの話だ。

代わりにぐちぐちいう。
皮肉を言う。
言い方はオブラートに包んではいるが、後から言わなけりゃよかったと後悔することばかりだ。
何も言わなくても、心の中でぐっと抑える。これはこれでストレスも溜まる。よろしくない。
何より周りの人間からはたいして自分が怒りを感じていなくても、怒っていると言われることがある。
我慢ではダメだ。
制御するのだ。

今はたまたま怒りを爆発するような機会が人前ではないだけで、
このままを続けていてはきっといつか爆発する。
自分がどういう時に怒りを感じるのか、
ムキになるのか、
それらを記録し、自分を知る努力をするべきだと感じた。
自分を知っていれば予防ができる。
客観的に物事を見つめられる。
準備さえ出来ればなんとかかわせそうな気がする。

怒らない人間にはなりたくない。
適切な時に怒る人間でありたい。
冷静に残念だと思う気持ちを伝えられる人間になりたい。
今直さないと、歳をとるほど短気になるだろうから。
私はそうはなりたくないのだ。

後、忘れたくないことをもうひとつ。
怒らないことはよくないが、
何に対して、何のために怒るかで
人の器を測ることができると思う。

2013年11月3日日曜日

ハムレット

ずっとシェイクスピアのハムレット(岩波文庫)を読んでいた。
どの翻訳でもそうだが訳者の解釈によって全く意味が異なってきそうな雰囲気がある。
岩波文庫のマクベスは芝居を意識して読めたのだがこちらはどちらかといえば読み物な感がある。

様々なシーンにおいて、狂気を演じるハムレット、苦悩するハムレットがいるが、この時点でのハムレットは欺いているのか、正常なのかといった部分が私の読解力のなさも手伝ってか、いまいちわかりにくい。

今は便利な世の中でiBooksでShakespeareの英文も無料で読める。
拙い英語ではあるが読み取りの補助としている。

とはいえ、訳文の不味さというつもりもない。あくまで私にはわかりにくいだけのことだ。話の筋だけを理解したいだけなら漫画版などを読めばいい。
噛み締めてみたいからこそ英文と訳文を片手に読んでいるわけでもある。
この作業がもう本当に楽しい。
いちいち「ここは違うだろう!?」と訳文や、ハムレットに突っ込んだり考えさせられたり共感しながらである。

藤原竜也主演ハムレットの舞台のYouTubeがネットにあったので開始5分ほどみていたが舞台演出や人によって同じ脚本でもまったく印象が異なるのだなと感じた。

ハムレットの前にマクベスを読んだが、文章としてはマクベスの方が好きだ。
短いのもあるが、韻やリズムがまとまって洗練されている気がする。
とはいえ、まだハムレットを読み終えていないので初読はストーリー理解に留めるつもりだ。
これは恐らくだが読めば読むだけ介錯や理解が拡がる物語であると思われる。
二読、三読と繰り返して噛み砕いていきたいと思う。

楽しいよ!シェイクスピア!




2013年11月2日土曜日

耳を傾けるということ

人の話に対して耳を傾けるということ。
異なる意見を持つもの、自身よりも下だと思うものに対してこそ
そうであらねばならないのではと感じた。

普通、自分より上の人の話はちゃんと聞く。自分と同等の人の話も聞くだろう。
しかし、自分よりも下のもの、未熟だと思っているものに対してはどうだろうか。
頭から否定してはいないだろうか。
どうせ大したことではないとタカをくくってはいないだろうか。
異なる意見を持つもの、自分に対して否定的なものの場合も同様ではないだろうか。

話されることを疑いつつ聞くことに関しては私は悪いことだとは思っていない。しかし、たとえそうであっても話は最後まで聞くべきだ。

彼は自分とは異なる世界で生き、自分とは異なる思考を持ち、彼自身とは異なるものとして私を見ている。
そんな人間に対してわざわざ反対意見を表明してくれる、否定してくれる。
そんな人に対しては感謝の念を持てばよいのではないだろうか。

全ての意見を実行しなければならないわけではない。
取捨選択は私次第だ。
しかし聞く前からあれやこれやと否定するよりは話させるだけ話させて判断を控えた後、考慮し、選択する方がよっぽどよいものが出来るのではないか。

そもそも私は自身のとるに足りぬ頭しか持っていない。
そこに本を読むことで多少なりとも歴史上の偉人や現代の賢人たちの考えを取り込む。
しかしそれは私の頭というハードの中にインストールされたソフトにすぎない。ハードの性能を大きくは越えられない。
だが、人の意見に耳を傾けることで異なるハードの異なるソフトから導き出された考えを取り入れられる可能性もある。

自分が普段聞かない、あまり聞きたくないとおもう人の話ほど耳を傾けてみよう。そこには自分の認識していない自分、自分が知りたいことがあるかもしれない。

議論好きなベンジャミン=フランクリンが友人から言われた言葉を思い出す。
「君はすぐに否定ばかりするから、誰も君と話したがらないよ。
だから君の知識は今以上ひろがらないのだ。今の取るに足らない知識からね。」
これを調べていたら次の言葉にぶち当たった。
同じくベンジャミン=フランクリンの言葉のようだ。
「愚か者の第一段階は、自分をよりよく見せようとすることである。
第二段階は、それを他人にしゃべることである。最終段階は、他人の考えを馬鹿にすることである。」
ああ…ぐさぐさと突き刺さる。
愚か者の心に。

汝、リンカンの言葉も忘れるなかれ。

I don't like that man. I must get to know him better.

私は自分とは違うもののことを、より知ろうとせねばならない。


2013年11月1日金曜日

軽い口について

自省録に次の一文がある。
以前は気にもとめなかったが今回読んでいくと妙に引っかかった。

"人に説明する際短気を起こさぬこと"

元来、というより本日も昨日も家族にスマホについて説明する際に起こった。相手に伝わらぬと少し声を張り上げてしまう。
「だから…!」と言った具合に。
その場合、大概は口から考えもせず同じ内容を繰り返すだけだ。何故相手の理解度を確認しつつ進められないのか。

同様に、話し方が軽いのではと感じる時がある。
冗談を言う時など意図的にする場合もあるが大概は口から反射的に出た言葉だ。

つまり相手が投げた球を打ち返してしまう。ムキになって。
これを正したい。
私の理想はキャッチボールか、バッテリーの会話である。
受け止めたいのだ。

よって、本日の午後からは相手の言葉をいったん飲み込むことにした。
ウンとワンテンポ置く。
早口でまくしたてるのではなく、そこで一呼吸置く。
それだけでボールはミットの中に入るのではないか。
これを続けていこう。

取り組むべきは自分自身であるということ

人格を高めるための意識は行ってきたつもりだが、
何度も同じ事を繰り返しては後悔する。
前も思ったはずなのに、書き連ねたはずなのにと何度思い返せばよいのか。
尊敬するリンカンの以下の言葉を言えるようになりたいのだが
なかなかそうもいかない。
"All my life I have tried to pluck a thistle and plant a flower 
wherever the flower would grow in thought and mind."
ペンデュラムを前の彼女から教えてもらった。
これは不思議なもので「時計回りに小さく」「左回りに大きく」等と念じていると
実際にその通りに動き出す。
この単純な石の動きが自分にリラックス、集中を与えてくれるような気がして
前々から再度取り出そうと思っていたが、今回ようやっと取り出してきた。

「時計回りに」と念じてみたところ、久々なためか念じたとおりに回らない。
それもそのはずチェーンのねじれからくるものなのかもともと左回りに回っていた。
だが、ここで思ったことは視覚的に(現実的に)左回りに回っていると
それを見ながらなかなか右に回るイメージが浮かばないのだ。
目をつぶったらどうだろうとおもって目をつぶってやってみると
案外うまくイメージは、できる。
が、ちらっと眼をあけて石の状態を見てみると、
目で石を捉えている状態と異なって集中が足りないからか石は左への回転が
小さくなる程度で右には回ってくれない。
目を開けていれば、イメージはどうしても左にいってしまい、石は大きく左に回り始める。

さて、どうしたものかと思ったが、いったん石を手で止めてみた。
そして、「時計回りに、大きく」と念じていると今度は目を開けたままでもイメージができ、
次第に石は回り始めた。

私の貧弱なイメージ力のこともあるかもしれないが
少なくとも私に関してはどうやら今ある状態に流されてしまうらしい。
意識しても、意識しても、どうやら今ある状態、自分の望まない状態を願ってしまうようだ。
ならば、石をいったん止めるしかあるまい。
そして、口に出して強制的に念じ、イメージを作り出していくしかあるまい。
これは私の人格に関しても同じことが言えるのではないだろうか。

つまり、人格を変えるためにはまず悪癖を自覚すること。
そして、口に出していくこと、言葉にすることではないだろうか。
言葉、態度によって自分の望む方向へ人格を変えていく。
まず言葉を変えることだ。
それをやらねばならない。

ペンデュラムをしていると頭の中がクリアになる気がする。
雲が晴れていくかのように。
頭の中に覆いかぶさる雲をペンデュラムで自由に消しているような感覚なのだ。
これは今後も続けていこう。

自分自身に

しばらく放っておいた当Blogに関して何度目かの改題、投稿継続の挑戦を行うことにした。
新題は「Ta eis heauton」。
個人的には愛読書であるといえる著作だが、実はまだそのすべてを読めてはいない
ローマ帝国皇帝Marcus Aurelius著「TA EIS HEAUTON」より
そのまま題名を取らせていただいた。
日本語では自省録となり、岩波文庫等から出版されている。
同著P3の訳者序では原題は「自分自身に」であるとのこと。
当Blogの目的とこの原題の意味が完全に合致しているため使用させてもらいたいと思っており
問題がなければこのまま続けさせてもらいたい。

自省録:http://www.amazon.co.jp/dp/4003361016

自分自身に対して言いたいことはたくさんある。
日々の反省しかり、後悔しかり、叱責しかり、覚書しかり。
そうしたものをこれまでは個人用Twitterやノートに書き連ねており今後もそのつもりではあるが、
あくまで散文程度のものであるため、ある程度散文を書き溜めたのち
こちらにまとめていきたいと思っている。

自分自身を客観的にみるための文章ではある為、客観性は意識するが
あくまで私個人のことである。
Blogというメディアにしたのも、検索して後から見返しやすいのではというだけの理由である。
他者から見れば何を小さなことをということがほとんどであろうし
文章としても読みにくいのではないかと思う。

私個人がどうありたいか、どうあるべきだったか、
何をめざし、何のために動くのか、一個人の内省を書き連ねることに
一抹の恥ずかしさを覚えつつもこれを習慣づけられるようにしたい。

かつて大病をした。
自分はその時に死を覚悟した。ここまでだと思った。
が、今も生きている。生かされている。
それはひとえに死を覚悟した瞬間に、私自身が抗い、人からの助けを受けて今に至るのである。
それまでは漫然と生きてきた。そばにあるものが当然だと思った。
しかし、そこから人生を考えるようになった。そばにあるものが当然のものだと思わなくなった。
いや、今も甘えとして当然だと思っているものはあるかもしれない。
だが、いつかなくなる、失う、ということは心の片隅にあると思う。

日々何も思わず、漫然と生きることは私には耐えられなくなった。
かといって、何も意識しなければ、会社と自宅の往復であり、特に何の発見もない日常でもある。
このような状態が続くことが嫌である為、意識を考えようと思った。
その結果が自分への反省や覚書等の記録であるのだが、それでもまだ足りない。
何度も同じことを反省するのだ、何度も同じことを思うのだ、何度も同じことを考えるのだ。
何も修正されていなければそれは意味がないことだ。
何度思えば修正される?
これが人生の暮れまで続き、死の瞬間に自分の理想像を抱きながら死ぬのは御免こうむる。

よって、このBlogに書き連ねることで意識をしたい。
このBlogに書くことで意識を修正したい、自身を成長させたい。
それが私の願いであり、自分自身へのメッセージである。